数学の考え方

これは,中部大学 2002年度前期開講の「数学の考え方」(担当: 渕野 昌)の web page です.このページでは, 講義のときに出された質問や,講義中に書いてもらった, リアクション・ペーパーの質問やコメントのうち,講義で答られなかったものや, 講義の説明に補足の必要がある,と思われるものに答えます. 質問,コメントは,こちらで編集して,もとのものとは異なることもあります. また古い日付の質問やコメントに対する答えを,後で書き足している可能性もあります.

このページに関するコメントを歓迎します.外野からのやじも歓迎です.私あてに email をおよせください (ただし,いただいたコメントの全部にウェブ・ページ上の記載やメールの返信の形で,お答えできる保証はできかねますので,何も反応がなかった場合には,悪しからず ...).


4月30日の講義に関するもの

残念ながら,[数学は]役に立たないと思います.小学校で学んできた``算数'' ならともかく,そうたいして数学は生活になくてはならないものとは感じません.


この回の講義では「数学は役にたつのか? 数学は応用ができるのか? ``応用ができる'', ということと ``役にたつ''ということの関係は?」 というような設問に答えてもらいました. 解答には,「役に立つ」という言葉を, 「自分自身の日常生活で活用されている」というように解釈して, 上のような答をしてくれた人,「社会では役に立っている」 というような答をしてくれた人,また,工学部の学生からは 「応用はできる」というような意見がありましたが, 残念ながら全体的に私が期待していたような, 掘りさげた議論をしてくれた人はいなかったようです.

もちろんこのような質問に模範解答がある,というわけではありませんし, 私の意見を押しつけるつもりもありませんが,いくつかの視点を 指摘しておきたいと思います.

まず,「... は役にたつ」という言い方, あるいはむしろ否定形で,「... は役にたたない」という言い方は, 日頃,何も考えないで使っていることが多いですが, 実はこの言い方自身ずいぶんあいまいだし,色々と問題を含んでもいる, という点を注意しておきたいと思います.もちろん, 上のコメントのように,「役にたつ」というのを, 「自分に役にたつ」と限定解釈して, 「数学は自分の役にたっていない」というふうに断言すれば,それは, そう言った人の主観的真実であるに違いなく,そうであれば,それに対し, それ以上とやかく意見を言えるものではありませんが.

しかし,もう少し,一般化された, 「個人の人生に役にたつ」とか,「社会に役にたつ」, などという解釈で考えてみると, この設問自体,とてもあいまいなものになってしまうことに気がつきます. つまり,このときには,まず,何をもってして個人の役にたつと言えるのか, 何をもってして個人の役にたつと言えるのか, ということをはっきりさせなくてはならなくなるわけですが, これはよく考えてみるとそんなに簡単なことではなさそうです.

「数学は個人の人生に役にたつのか?」,あるいは, 「数学は社会の役にたつのか?」 といった問いに真剣に答えようとすると, まず,「個人の人生に役にたつ」あるいは「社会の役にたつ」, という述語の意味についての,哲学的な考察からはじめなくてはならない, ということです. たとえば,「社会の役にたつ」ということの, ある程度明確な規定ができたとしても, どの時間尺度で見るかによって「社会に役にたつ」ことの意味がかわってくる 可能性もあります.つまり今現在社会に役にたっているように見えることが,200 年後にふりかえって見たときに,社会に役だっていたと言えるかどうかは, 何の保証もないわけです.

科学で,数学が役にたつのか,という設問には, もう少し具体的な答えが与えられるかもしれません. ただし,ここで言っている「科学」は, 日本語で「科学技術」と言うときの科学というよりは, たとえば英語で science というときの「科学」です.

科学における研究では,数学で用意された結果を応用する,ということが多いため, 「数学は科学のための道具である」というとらえ方をされることが多いようです. そこで,「科学前半において数学は道具として役立っている」, ということができるのではないか,と考えられます.

また,これとはレベルが違うかもしれませんが, 皆さんの中で工学部で勉強している人は, 工学でよく使う数学を,使えるようになる訓練をする, というスタンスの講義をいくつも受講しているので,そういう体験や, そのような講義で, 「ここで話していることは後になって,... に役にたつ」 というような先生のコメントを聞いて,「数学は工学で道具として役にたつのだ」 という印象を強く持っているかもしれません. 実際,解答で,そのようなコメントをくれた人もいました.

これはまあ,一つのとらえ方として間違っていないのでしょうが, 数学と他の科学との関係を,「数学は他の科学で使える道具を供する」 と言いきってしまうと, 重要な点をいくつも見過ごしてしまう危険があるようにも感じます.

まず第一に,数学は,必ずしも, 他の科学で使える道具を準備することを目的として研究されているわけではない, ということがあります.純粋な数学の理論として発展したものが,後になって, 物理学などの他の分野で応用されるようになった,という例がいくつもあります. 「数学は科学で使える道具を供する」ものである,という見方は, 数学者のコミュニティーの外側ではできても,数学者のコミュニティーの内側で このような規定をしてしまうと,純粋な数学の理論として発展が阻止されることで, 「数学は科学で使える道具を供する」ものである, という視点から有益とみなされる結果が得られなくなってしまう, という可能性さえあるわけです.

また,数学と他の科学,という分化が成立しないような例も多くあります: ニュートン (1642/43〜1727) や, ライプニッツ (1646〜1716) の時代には,物理学と数学は未分化で, たとえば,ニュートンは彼の力学理論を確立する過程と平行して,そこで 縦横に使われることになる,微分積分学の基礎を作っていったのです. 20世紀に入って数学と物理学が研究分野としてはっきりと分離した後でも, 数学者自身が,物理学の研究をしたり, 経済学の研究をしたりというような例も多くあります.たとえば, フォン・ノイマン (Johann Balthasar Neumann, 1903〜1957) , 量子力学という, 今世紀になって確立された,分子原子以下のマクロの世界にも適用できる, 新しい力学の数学的基礎づけに関する仕事や,数理経済学の確立などの 仕事や,コンピュータの設計原理に関する仕事(ノイマン型コンピュータという 言い方をどこかで聞いたことがあると思いますが,これは, このノイマンにちなんだ命名です)などを行っています.

もともとは数学者ではない人が,その人の研究の必要から, 新しい数学理論を作ってしまう,ということもあります. チョムスキー (Noam Chomsky, 1928〜) は, 彼の作った生成文法の理論により,現代言語学で画期的な仕事をしています. (最近,チョムスキーはアメリカのアフガニスガン攻撃を猛烈に批判して, この意見はアメリカのメディアで大きくとりあげられたので, この関連で,新聞などで彼の名前を目にした人もいるかもしれません.) チョムスキーの生成文法の理論は, もともとは自然言語を理解するために作られたものだったのですが, この理論は,現在では,コンピュータ言語 (コンピュータのプログラムを書くのために作られた人工的言語)の 理論の数学的基礎理論として,幅広く応用されています.

ノイマンやチョムスキーの例でも,ニュートンでの場合と同じように, 数学とその応用,あるいは,数学を道具として使った他の分野の研究, というような分化は,成り立たっていなくて,一つの理論として, 量子力学とその数学的基礎を記述するための数学的枠組の整理, 経済学と経済現象を記述するための新しい数学理論,あるいは, 言語理論とその基礎理論を記述するための新しい数学, というような複合物として, 新しい理論が生成されてゆくのを見ることができます.

「道具」と言ったときには, ひとつひとつの局面で,アド・ホック(場あたり的)に使われるもの, というニュアンスがあるのですが, 数学が他の科学の分野と本質的にかかわりあう場合には, 上の例でもすべてそうですが, そのかかわり方はもっと,全体的,本質的なことが多いのです.

ギリシャ時代以来,数学は理論体系の規範と考えられてきました. 「どんな科学理論でも, その理論が洗練されてゆくと数学に近づいてゆく」というようなことも, 言われます.たとえば,さきほど述べた,ニュートンは,彼が作りあげた 力学の理論の集大成である ``Philosophiae Naturalis Principia Mathematica''(自然哲学の数学的原理)というタイトルの本を, 1687年に出版していますが,このタイトルは, ユークリッド(BC330ころ〜BC260ころ) の数学原論(ラテン語名は ``Principia Mathematica'' )を意識していることが明らかです. タイトルだけでなく,本の記述方法を見ると,ニュートンはユークリッドの, 原論のスタイルを下敷きにして彼の ``Principia'' を書いていることがわかります.

【この項はまだ工事中】


4月16日の講義に関するもの

もう少し深い話が聞きたい


これは,このコメントをくれた人が,どのようなものを 「深い話」と思っているかによって 答が違ってくるので,ちょっと対応しにくいのですが ... この講義は,工学部の学生も人文系の学部の学生も一緒に受講してもらっている ものなので,もし「深い話」というのが数学の技術的側面での深さを 指しているのだとすると,残念ながら,この希望にはそえそうにありません. しかし,科学哲学としての「深さ」が問題なら, 前回と今回の講義で扱った「数」の体系の話は,それ自身,すでに 大変に「深い」話です.話の順序の関係上,「実数とは何か」という問題は 今回の講義ではさけましたが(このテーマについての話は, 後で触れることになると思います), 一回目の講義でも話したように, 数の体系は3000 年にわたる人類の数学の歴史を通じて発展してきた, 中心的な課題の一つです. ちなみに, 次回の講義では,「数学と無限」というテーマに触れる予定です. この講義ではやさしく分るような話しかたをこころがけていますが, だからといって話の内容が深くないとはかぎりません. 逆に「深い話」をしている みたいで,実は本質的なことはなにも言っていない, ということだってありえるわけですよね.
4月9日の講義に関するもの

マイナス×マイナス=プラスの説明をするならマイナスは``うそ'', プラスは``真実''と考えると, うそのあとに「うそ」と言えば真実になるから ...


数学の理解には,このコメントにあるような, 「たとえばなし」で「なっとく」する,というレベルから, もうすこし厳密な論理的なものまでいくつもの層があります.講義で説明したのは, 厳密な現代数学の用語を使って言いなおすと, 「整数の足算と掛算の作る構造が可換環の公理を満たしているなら, マイナスの数とマイナスの数をかけたとき計算結果は, 両方の絶対値をかけたプラスの数になる」ということの証明になっていて, その意味でかなり厳密なものです. もちろん「理解した気分になる」ことは大切なのですが (私の講義でもあまりにもむずかしくなることをさけるために, 「理解した気分にさせる」というレベルの説明で, がまんせざるをえない場合もあるかもしれません),そのことと, 厳密な意味で「理解した」ということとの違いが分るようになってもらえればと 思います.

(-)×(-)が(+)になる理論があまりよくわからなかった. --a =a を前提条件の一つとしてつかっていたが,これ自身 (-)×(-)が(+)になることと同じくらい分からない気がした.


これは前のコメントとは逆に,もっと厳密にくわしく説明してほしい, ということでしょう.-a を ``a + b = 0 となるような b がただひとつ存在するので, これのことを -a とあらわす'' として導入されたものだ,ということを認めると, そのことから --a = a は自然に説明できます. この定義から a+ -a = 0 ですが,これを-a +a=0 と読みなおすと,a は --a つまり (-a) にマイナスをつけたもの,の満たすべき式を満たしていることが分かりますが, そのようなものはただひとつ存在すると言っているので, a=--a が帰結できるわけです.

数学は好きです.でもそれと同じくらい文学も好きで,好みが分裂しています.


「数学も文学も好き」というのは全然矛盾しないと思うのですが, ... 「数学と文学」ということで思い出す逸話などをいくつか書いてみます.
Sakaé Fuchino <fuchino@isc.chubu.ac.jp>

Last modified: Tue Jun 11 19:43:10 2002